神様の働きは「人」をとおして前進します。ノルウェーからの日本伝道も、第二次世界大戦中、満州での、矢田文一郎牧師と、ガブリエル・エイクリー宣教師の出会い、友情、そして、戦後の混乱の中での、矢田師のエイクリー師への日本伝道への要請の手紙、という関わりから生まれました。
エイクリー師は、矢田師の手紙を「マケドニヤの叫び」と信じて、米国を経て、日本に向かったのでした。
[資 料]
矢田文一郎の要請にこたえて、ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)のG・エイクリー夫妻がアメリカで伝道協力の約束を得て、1949年6月横浜に渡来。矢田に紹介された賀川豊彦の協力を得て、兵庫県西明石を宣教の出発点とした。同年中国での宣教師追放により、伝道会本部は日本伝道を正式に決定し、中国から引揚げた宣教師を日本に送った。49年9月、西明石でNLMの日本伝道開始式を挙行、山陰地方を主体に教会を形成。
60年4月の総会で西日本福音ルーテル教会憲法が承認され、63年3月神戸ルーテル聖書学院での総会で、青谷、西須磨、西明石、姫路、津山、鳥取、松江、大田の各教会、和田山伝道所が加入にて庄式発足。初代議長は鍋谷堯爾。65年6月宗教法人として認証され(自立と協力)を合言葉に伝道の強化を目指し、ルーテル諸教団との協力の下に海外伝道を推進。80年にインドネシアヘ宣教師を派遣したのをはじめ、未自給教会の助成、東京教会の形成、神学校(神戸ルーテル神学校、神戸ルーテル聖書学院)、日本ルーテルアワー、蒜山農村センター、文書事業(聖文舎)への経営参加などの諸活動を行っている。60年から機関誌『主の枝』(月刊)を発行。
西日本福音ルーテル教会(『日本キリスト教歴史大事典』教文館・1024頁)
ドイツ語地域以外では、ノルウェーの農民の子で商人、ベルゲンのハンス・エールセン・ハウゲ(1771~1842)が倦むことなく活動した最大の福音伝道者であった。無学ながらもハウゲは、故郷の山岳地帯を巡り歩いて福音を説いた。この点、ジョン・ウエスレーが馬でグレート・ブリテンを巡回したのに似る。ハウゲは、まったき回心による再生を叫ぶ強烈な説教をし、大部分が彼自身の手になる、粗末な文書を配った。ハウゲは1804年から1811年までの7年間、浮浪のかどで、また1741年発令の秘密集会禁止令違反の罪で、オスロで獄中生活を送り、引きつづき2年間の城塞禁固を宣告された。しかし彼はどんな苦難にも勇気を失うことなく、かえって自分の弟子たちに教会への忠誠を守るよう諭した。彼は次第に信仰による義認を説教の中心におくようになり、こうしてプロテスタント・ルター主義国教会自体を、根底から再活性化させたのである。以上で明らかなように、新敬虔主義全体にわたる特徴は、多数のキリスト教の拠点を生み出したこと、また一介の庶民がイエス・キリストのための運動に全生涯をささげるようにさせる力をもっていたことである。
ノルウェーの敬虔主義(M・シュミット『ドイツ敬虔主義』 教文館・269~270頁)
「ノルウェー・ルーテル・中国伝道会」は1891年設立され、同年8名の宣教師を中国に派遣した。(1949年「ノルウェー・ルーテル伝道会」NLMと改称)
「NLMの最初の愛は、中国であったので、中国と中国人はノルウェーのミッション・フレンドに忘れられてはいない。神があてて与えて下さった召しはそれほどに偉大であったからです。私たちは中国伝道会として生まれたのです。」
「満州で働いていた宣教師は、矢田牧師と知りあって、戦争中、矢田師のいろんな助けを受けた。戦後、日本に帰った矢田師は、NLMの宣教師と文通し、日本にも宣教するように懇願した。『マケドニヤ人の叫び』エイクリー師にとって避けられない召しの声となった。彼が、アメリカを経て1949年6月、日本に到着したときに、日本での新しい伝道はまだ承認されていなかったが、NLMの実行委員会はまもなく開始許可を与え、中国から引き揚げた宣教師を日本に送った。新しい働きを始めるために矢田師からのいろんな補佐を受け、西明石の賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めた。神戸で聖書学院を始めるために、2人の引退牧師ウィンテル師、スタイワルト師が協力を申し出られた。ウィンテル師はそのとき75才であった。ほば20年の間、聖書学院の働きのために計りがたい貢献をされた。最初の宣教師は農民への伝道を重視していた。1950年山陰の松江で働きを始めた。」
ノルウェー・ルーテル伝道会
(J・サメイエン『ノルウェー・ルーテル伝道会の歴史と現況』主の枝・161号)