彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。
イザヤ53:2

第二次世界大戦の敗戦は、日本の歴史の中で初めて、外国の軍隊に国土が占領されるという結果をもたらしました。原爆によって廃虚となった広島、長崎、空襲によって焼け野が原となった東京、大阪、神戸、戦場となった沖縄。満州、台湾などからの引き揚げ者。貧しさの極みの中で生きるために懸命な人々。戦後、半世紀以上たった現在では実感できない貧しさと困難がそこにはありました。

米国から派遣された多くの宣教師と物資援助によって日本の教会は息を吹き返し、戦後の「キリスト教ブーム」が起ります。それは「あと十年もすれば日本はキリスト教国になる」という期待を宣教師たちに抱かせるほどのものでした。この時代に、エイクリー師は来日し、しかも、欧米でよく知られた日本のキリスト者賀川豊彦師とのつながりの中で西明石で宣教の第一歩を踏み出したのでした。

1950年代、NLMは、次々に土地を取得し、開拓伝道地を誕生させます。

50年
姫路、荒島、松江、青谷(神戸ルーテル聖書学院)、西須磨の働きが開始されます。姫路では保育園が開園されます。
51年
鳥取、大田、西明石幼稚園
52年
粟生、
53年
津山、和田山、
55年
勝間田、大田、津山幼稚園
56年
ルーテルアワーセンター(現「心に光を」メディアセンター)、聖書学院新校舎完成、
57年
神戸ルーテル神学校開校、
58年
「心に光を」、ラジオ山陰による放送開始
59年
NLM年会において、教会組織発足のために「六人委員会」が任命され準備にあたります。
60年
「主の枝」創刊。総会において「西日本福音ルーテル教会憲法」が承認され、教会成立への歩みが始まります。

50年代は、NLMの宣教方針によって伝道の拠点が確保され、西日本教会の核となる教職、信徒が救われ、養育された時代でした。現在の西日本教会の基本的な機能である地方教会、各事業(聖書学院、神学校、放送伝道、幼椎園)、そして、教会憲法が整備されていきました。

この10年間の働きの主体が宣教師であったこと、その背後に、忠実なミッションフレンドと呼ばれる信徒の祈りとささげものがあったことを忘れてはなりません。また、この生成期に献身し、貧しさの中で訓練を受け続けた第1世代の教職者の方々を覚えます。

[資 料]

この期間の公的記録は、西日本教会では管理されていない。地方教会の週報その他の記録、およびNLMの資料を可能なかぎり収集し、整理する必要がある。

58年7月20日、NLMの社会保険加入が許可される。以後、教職者は厚生年金、政管健康保険等の恩恵に浴することになる。