あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。
イザヤ54:2

70年代は、地方教会の自主性が確立、成長し、NLMは伝道地を開拓し伝道の拡大が見られました。海外からは、フィンランド・ルーテル海外伝道会(FLOM)が宣教師を派遣し、NLMの組織の中で開拓伝道に携わりました。また、海外伝道へと視野が広げられ平野嘉春師、千金町子師が宣教師としてインドネシアに派遣されました。

さらに、78年には宿野太郎師が専任事務局長になり、本部事務局の機能が強化されました。(栗飯原健三氏はNLMの伝道開始当初から伝道会と日本のパイプ役となり、西日本教会設立後は無給の事務局長として十三年にわたって奉仕されました。)

71年
東岡山伝道所独立。北大阪集会。
72年
緑ヶ丘、集会開始。
73年
赤穂、教会用地購入。
74年
3代議長、鍋谷堯爾 NLMから西日本教会への財産移管調印式。
出雲教会開始。玉島伝道開始。
75年
姫路東教会設立。年間受洗者100名をこえる。
76年
自給八か年計画承認。上井(倉吉)伝道開始。
77年
東京伝道所開始。
78年
事務局長、宿野太郎任命。
79年
東福山、会堂献堂。
80年
4代議長、有木義岳 宣教師派遣(平野嘉春、千金町子、インドネシアヘ)

[資 料]

1968年初代総会議長鍋谷先生のあとを受けて、私は、総会議長という重責ある職務に召された。この時期は、日本の社会全体が「激変」の渦中にまきこまれていたときであった。そして、その影響は種々の形で日本のキリスト教会に及んでいた。私達の教会もその例外ではなかった。私達は、その時点で「教会に委ねられた奉仕の務め」とは何かを問いかけられたのである。この課題と取り組み続けた6年間であった。最初の2年間には、アウトリーチ(伝道活動)を中心に必要な基礎固めが行われた。つまり、成長するキリスト者の「養育」を目指す教会という点から、教会のミニストリー(神から委託されている務め)と働きの形態、機能の関係が検討され、教会の進むべき方向が研究されたのである。最初の2年間は、さきの二つの期間の結論として生まれた「伝道する教会となるために」という目標を目指して、具体的にステップを踏む期間となった。このステップは、1973年春の教職者人事異動の実施であった。それは、まことに神の憐れみ深い導きの賜物であり、全教会の祈りと努力の結実である。この移動を軸にして西日本教会の伝道戦線は、地域的にも階層的にも、新しいフロンティアを見いだしてきた。また、地方教会レベルでも、伝道力の強化と他給教会へのビジョンとして捉えられてきた。・・これまでの西日本教会の歴史を、ノルウェー・ルーテル伝道会との関係という点から見るならば、今年は新しい段階に入る年だと言えよう。鍋谷議長の期間は、伝道会からの分離期であった。伝道会の組織下にあった各地の会衆が、伝道会に対する新しい組織体としての西日本教会となっていく移行の期間であった。この意味で、両団体にとって、実に苦労の多いときであった。続く第2期は、一言で言えば、自立への体制を固めるための準備期であると言えよう。従って、西日本教会のアイデンティティー(自己同一視)が常に確かめられてきた訳である。つまり、西日本教会とは何か、神から委託されている教会の奉仕の務めは何か、という事である。そこでこれからの段階は、「神の教会」としての西日本教会が、自らの信仰によって神からの委託に対して貴任を負い、その委ねられた「奉仕の務め」を果たしてゆくときである。神から与えられている伝道会との協力関係を尊重しながら、主体的に教会を形成し宣教のわざをなしてゆく訓練の期間に入る訳である。

『西日本福音ルーテル教会第十三回総会緒報告』総会挨拶・谷口泰造、1974年